週刊ゴミ収集車

いしや〜〜きいも〜〜〜〜〜やきいも〜〜〜〜〜〜

ドラマチック症候群

※この記事は、あくまでも自身の考えを整理するためのものであり、映画の在り方や産業を否定するものではありません。

 好きなものを好きだと思いながらも苦しさを感じている、矛盾だらけの自分を少しでも救いたいという気持ちで綴ったものです。

 

 

どんな映画が好きかと問われて、改めて昔観た映画を振り返ることがあるだろうか。

先日、ツイッターで回ってきた「」というタグが面白そうだったので便乗した。そんな折に、自分が観た映画をいろいろと振り返っていたのである。

 


私にとって歴代不動の一位は、『毛皮のヴィーナス』というフランスのブラックコメディである。

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数ある映画の中で何故この映画なのかを語ることはしないが、今観ても同じように心に残るかと言われると、即座にイエスと答えられる自信は無い。

なぜなら、映画や小説、物語と呼ばれるもののほとんどは、その時の受け手の状況やコンディションに大きく左右されるものだからだ。体調だけではなく、その時の精神的なコンディション、直前に触れた物語の残滓、予告トレーラーを観た時の期待感、そういったものが複雑に絡み合って、今の私の「受け取り手」としてのコンディションを形成している。

二度と同じコンディションは訪れず、そのたびに私は違う人間としてその作品と対峙することになるだろう。そのことを否定的に捉えたことはないし、これからもないと思う。
でも、時々ふと感じてしまう。

 

「あの時みたいに純粋な気持ちで映画を観たい」と。

 

 

「物足りなさ」は誰のせいか

 

今の私には、物語を楽しむ余裕がほとんどない。そう感じることが増えた。
忙しいからとか、疲れているからではない。

 (仕事に忙殺されることが無いわけじゃないけど)

余裕がないのは、きっと「脳が飽和しているから」なんじゃないかと思う。
物理的にではなく、精神的な意味で脳が麻痺している。
たくさんの物語に触れ、思いもよらない展開にどっぷりと浸った私の脳は、快楽の閾値を超える体験を何度もした。
そのたびに「この作品に触れられてよかった」「寝る時間を惜しんで観に来たかいがあった」と目を爛々と輝かせながらナイトシアターを後にした。仕事の憂鬱をやすやすと越えてしまうほどの高揚感は何度味わってもたまらない心地にさせてくれる。

気持ちいい。

やっぱり映画が好きだ。

こんな物語に出会える時代に生まれたことのなんと幸せなことか!

夢見心地でベッドに入るまで、何度も何度も体感した感情を反芻して、その演出や撮影、音楽の巧妙さにううんと唸ってしまう。

あのシーンの、あのカット。そこに秘められた意味はなんだろう。
物語の構成を変更したらもっと良くなったんじゃないだろうか。
セリフの言い回しに小粋なセンスを感じて、ちょっとにやけてしまう。
せっかくならもっと照明にもこだわってほしかったな…。
とか、とか。

 

もちろん、物語として決定的な欠落があったりだとか、そもそも完成度の低い映画も無いわけではない。私とて、その点を抜きにして考えているわけではない。

けれども、私が感じた「物足りなさ」や「物語としてのぬるさ」は、単に物語のせいだけなのだろうか?とも思う。誰かに原因を押し付けることが目的ではないが、ふと感じることがある。

私がもう少し開かれていれば、楽しめたんじゃないだろうか?と。

 

映画の世界に浸ることは非常に楽しく、初めて海に飛び込んだような心地であちこち泳ぎ回り、いろんな魚や生き物に触れてきた。その中で少しずつ「この魚は浅瀬で泳ぐのが好きなんだな」とか「この生き物はウニから分かれて進化した生き物なんだな」とか、そういった特徴をつかめるようになってきた。

そんな中で、私は一瞬の飽和状態に陥っている。今、まさに。

発見や未知との出会いが一通り終わると、ポツンと海に取り残されて考えるのである。

「もっと色んな生き物を見たい」

私は、今まで以上の刺激を求め続ける。初めて飛び込んだ時の感覚を忘れて、新しいものへまた興味を向けようとする。映画の海を出て、今度は他の場所へ行ってみようか。でも、私はやっぱり映画が好きなのだ。もっとこの海の奥深くを見てみたいのだ。この海の中で、飽きもせずに、もう一度未知との遭遇を果たしたいと考えているのだ。

 

 刺激は「魔法」でもあり「麻薬」でもある

 

ドラマチックな物語を嫌いな人はそう多くはないと思う。

我々の日常を蝕もうとする大いなる悪の存在。MARVELousなヒーローたちの活躍。宇宙の異星生命体からのメッセージ。理不尽と戦い続ける苦悩と勇気。天才と凡人とプライドと偏見と。

世に生み出された名作は、どれもまっすぐなメッセージ性を持ちながらその姿をドラマチックに描き出していた。人々に警告をし、元気を与え、心を震えさせて、共振する。それは、物語の最も幸福な姿でもある。人の心を揺さぶり、2時間弱という時間で人々に強烈な魔法をかけるのだ。


私はドラマチックな物語を否定するつもりは一切ない。むしろ、私自身そういったものを好んできたし、胸の躍るような物語を製作する人々には心から敬意を払っている。

けれども私の場合は、物語を多量接種すると、快楽中枢がバグってしまうことがあるのだ。ジャンクフードのように物語をむさぼり続けてしまうと、平均値のボーダーがめちゃくちゃに跳ね上がってしまう。いつしか平均値は最低値へと変わり、もっと、もっととドラマチックな物語を求め続けてしまうのだ。

そして、その刺激を得られないと「あぁ、また違った」「これでも足りない」と落胆したり、物足りなさに失望したりしてしまうのだ。人はもっと大きなショックを受けなければ生き方を変えない。もっとドラマチックな出会いがなければ恋には落ちない。もっと揺るぎない事実に打ちのめされなければ人を殺したりしない。もっと、もっと、もっと……。

それはまるで麻薬のようだ。

一度味わうと病みつきになり、同じ量では物足りなく感じるようになる。次は少し量を増やして、今度はまた増やして。飢えや渇きを癒すためにもっと強い刺激を求めてしまうようになる。

けれども、現実の私たちはどうだろう。ものすごく些細なことで怒ったり、ほんの少しのきっかけで生き方を見直したり、単純な動機で他者を傷つけたり、気付かないうちにコロリと恋に落ちていたりする。
そんな現実を超越する物語だからこそ魅力的なのは確かだ。けれども、ドラマチックさは物語の全てではない。そう頭ではわかっているのに、喉が渇くほどに甘いジュースやたっぷりと脂をたたえた霜降り肉がやめられないように、脳が刺激的なものを求めてしまう。

 

まったく、脳とはなんと本能的な生き物なんだろう。
理性を司るとは言われているものの、あきれ返るほどに報酬に弱い。

 

これは普遍的な学習でもある

 

正直なところ、今の状況はとても苦しい。

世間的にめちゃくちゃ評価の高い映画が楽しめない。周囲がお祭りさわぎで楽しんでいるものにも同意できず、一人で悶々と何がひっかかっているのか考えている。

私なりの感触をうやむやにしたままではいたくなくて、あれこれと考察や参考資料を引っ張り出しながら。苦しいけど、やめたくない。

周囲と同調して自分の経験を捻じ曲げることやないがしろにすることだけはしたくない。それは、私自身に対して最も不誠実な行為だ。

きっと正解はないのだろうと思う。終わりもない。けれども、映画という分野における言語を少しずつ学んでいく上では、この苦しさは絶対に避けられないものだとも思う。

下記の本で取り上げられているように、新しいことを始めること(および学習をすること)は、終着駅のない電車に飛び乗ることでもあるのだろう。

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明確な答えがないままに進む先で、もう一度ドラマチックな出会いができるかどうかはわからない。けれども、きっとこの場所で「物足りない!」と叫んでいるだけでは、私は一生あの時のような快楽に溺れることはできないのではないだろうかとも感じている。

しびれるような映画に出会えないことよりも、このまま変化せずに過去を美化し続けるだけの人間になるほうが怖い。

だから、私は今日もまた休日を返上して映画館に足しげく通おうと思う。