週刊ゴミ収集車

いしや〜〜きいも〜〜〜〜〜やきいも〜〜〜〜〜〜

映画鑑賞という趣味

私は映画が好きだ。

 

裏でどれほど大きな思惑が渦巻いていようとも、名前のない金が流れていようとも、そこに私の持つ信念とは異なる主義主張が含まれていようとも、私は映画が好きだ。

決して一人では作り得ない、なし得ない業績がそこにはある。

日々新しいものが生まれ、そして忘れ去られ、また別の作品の興隆によって思い出される。

芸術としての年齢はまだ若く、だからこそ技術の発達ともうまくやっていける。

 

正直、映画のこととか全然詳しくない。別段、どこかの学校で映像について学んだことがあるわけでもない、ましてや自分で映画なんて撮ったこともない。

それでも好きなのだ。

私もそこへ到達したいとか、一緒になってなにかを作り上げたいわけではない。

それでも好きなのだ。観ているだけで、そこに関わるたくさんの人間の意識やこだわりが自分の中に流れ込んでくるその瞬間が、とても好きなのだ。

 

今回は、どうして私が映画を観るようになったのか、そのことを少しだけ、簡単に書き連ねていきたい。

こういった形で発信をするのは初めてなので、あまり良心的なエントリにはならないと思うが、そこはご容赦いただきたい。

 

 

 

生まれて初めて映画を観たのは、4歳の頃だったらしい。

その時に観たのは、誰もが知っているディズニーの『リトルマーメイド』という映画だった。開始20分ほどで寝落ちし、隣で観ていた母は私の頭を支えながら最後まで耐え抜いたと言っていた。

同時期に連れて行ってもらった舞台『アニー』では、一部始終見逃さず食い入るように観ていたのを自分でもよく覚えている。

二階席の中央。

自分より少し大きなお姉さんたちがパワフルな歌声と熱量で大舞台を飾るその姿に、引き込まれるような情熱を感じた。

それだけに両親からしてみれば、せっかく映画館へ連れて行ってみたものの、開演早々に寝落ちした上に「何も覚えていない」と言われたことは少なからずショックだったのだろう。私は母に「もうお母さんは○○とは映画に行きたくないわ」と言われ、それ以来本当に母と一緒に行くことはなくなった。

そのことを小さな頃から何度も何度も、繰り返し聞かされていたので、私は「自分は映画が好きではない」のだと、ずっと思っていた。

  

父はノンストップコメディが好きで、途中少しでもダレるところがあると爆睡してしまうタイプの人だった。何度か一緒に映画館へ行ったりもしたが、寝落ちした父のいびきがうるさくて集中できないわ恥ずかしいわで、むしろこっちから「これからは、映画館には一人で行く」と断りを入れた。

父は笑いながら「ごめんなぁ」と言ってくれたけれど、私はとうとう両親と映画館へ行く機会を完全に失ってしまった。

 

私は両親のことを恨んだことはない。別に映画なんて観なくたって、今のご時世、娯楽は両手でも足りないくらい溢れかえっているのだ。

現に、その頃の私は音楽に傾倒していたし、そのこと以外考えられないほど音楽の世界に没入していた。毎日のようにCDショップへ通って、自室の中でラジオの電波が入りやすい位置を必死で探していた。変な体勢でラジオを聴きながら、ジャンルなんておかまいなしに何でも耳に流し込んだ。

私の頭の中に映画なんて選択肢は頭の中に一ミリも無く、むしろ時間の無駄だとさえ思っていた。

だって一本で2時間30分もあるんですよ?それだけの時間があったら、アルバム二枚聴けちゃうじゃないですか!頭からおしりまで、通して聴いても時間が余るくらいですよ?!そんなの時間が勿体無い!!

そう思っていたんですよね。ほんとに、本気で。

特に、映画は「ながら作業」で観ることができない。

音楽は聴きながら家事をしたり、学校の課題をしたり、他の作業を並行して行うことができるけれど、映画はそうはいかない。一度映画館に入れば、終わるまでそこを動くことはできないし、つまらないからといって寝るという選択肢も私は持っていなかった。

 

そういうアレコレから(長くなりそうだから切りました)、私は大学生になるまで映画をほとんど観ることなく過ごしてきた。映画館に行った記憶も、ワクワクとした記憶もない。

 

けれど、私のように生涯で映画をほとんど観ずに(あるいは、たまたまテレビを付けたら流れてきたから……くらいのノリでしか映画を観ないで)過ごす人は、少なくないと思う。

news.yahoo.co.jp

観に行く人は、年に何度も月に何度も映画館に足を運ぶけれども、その割合というのはほんの一握りで、むしろ年間一度も映画館に足を踏み入れない人の方がメジャーだという。

この結果の信ぴょう性がどれくらいかは私には分からないけれど、周囲の人間を見渡した体感で言えば、おおよそ間違っていないと思う。

 

 

ここからが本題になるのだけれど、ちょっと前置きが長すぎましたね。反省……。

さて、本題に入ろう。

今回、こうして筆を取ったのは、

「どうして、私が映画鑑賞を頻繁にするようになったのか?」

というとても個人的な挙動の整理をしたかったからだ。

 

正直、誰がこのブログを読もうが、どう感じようが、本当にどうでもいい。

私自身は「もっとみんなに映画の良さを知ってほしい!」とか「映画館で観ることの素晴らしさを体感してほしい!」とか、そんなことは一ミリも思っていない。

私は私のためにこのエントリを書いているし、私の趣味を誰かに押し付けるつもりもない。ただただ、私がどうしてここ数年でこんなにも映画に傾倒するようになったのか、その推移を私自身が解き明かしてやりたいと思っているだけだ。

 

初めて、自分の意思で映画を観に行ったのは、2014年のことだった。

その日は、借りるつもりだったアニメのレンタルDVDが無くて、仕方なくイオンモールで用事を済ませ、たまたまフラリと立ち寄った4Fの映画館で聞いたことのあるタイトルの映画を見かけた。

www.foxmovies-jp.com

ちょうどレディースデイだったこともあり、本当に軽い気持ちで映画のチケットを買って、その映画を観た。

大の映画好きである友人が「俺はあんな風にはなりたくない」「やっぱり女って怖い」「もうしばらく彼女はいらない」などとのたまっていたので、今度の話のネタになれば、というのが観賞したきっかけだった。

夜の回だったので、このチケットにはレディースデイの割引が適応されるのか、それともレイトショー料金が適応されるのか、そんなことを考えながらドキドキして販売口に並んでいた。

 

 

衝撃的だった。

 

 

スクリーンの迫力もさることながら、役者の演技に胸ぐらを思いっきり掴まれた。

私は「女が怖い」とか「彼女はいらない」とかではなく、純粋に「映画って恐ろしい」と思った。

だってこんなもの、観たって気持ちのいいものじゃない。結末だって最悪だし、こんな状態でまだ人生半分残ってるなんて、想像しただけで気が狂いそうだ。

それなのに、それなのにとてつもなく興奮した。

映画館を出た後もずっと頭の中がバチバチと弾けていて、あのシーンを脳裏に呼び出さずにはいられない。少し冷静になり始めてからは、(あの人は死んだけれど、実際には死んでいなくて、あれはメイクや技術でそう見せているだけで……)と考えるだけで、また違う興奮を覚えた。

すごい。すごい。あれは現実じゃないのに、あの映像は本当なんだ。存在しているんだ。

 

帰宅してからは、インターネットで評論を読み漁った。

いい評価も悪い評価も全部読んだ。私とは違う視点、違う解釈、違う考え方。何もかもが新鮮で、とても楽しかった。

知らないことだらけの世界だけれど、共感できるものもあれば、理解するだけにとどまるものもあった。

同じ監督の作品を片っ端から借りて、講義にも行かず、まるで取り憑かれたように映画のことばかり考えていた。

 

 

私にとって、小説を読むときの一番のネックは「想像力の欠如」だった。

場面や情景、登場人物の表情、そういったものがうまく思い描けなくて、どんな小説でもすぐに躓いてしまう。最後まで読み切ることもあったけれど、それはごく稀な話だった。

自分の知っている町、知っている風景、知っている雰囲気であればサクサク読むことができたけれど、そうでないときは、最初の1ページで心が折れそうになる。

主人公が歩いている道、そこは砂利道なのか、それとも草っ原なのか、はたまた石畳なのか。

周りの建物は? 空の濁りは? 野草の高さは? 服は? 街灯の色は? 髭の長さは? 街の静けさは? 家の壁はどんな肌触りをしている?

何もかもが気になって、話に集中できない。もうしんどいから、絵で描いてくれ!となってしまう。マンガみたいに、一コマの中にギュッと情報が凝縮されて、それを視覚的に捉えられることができればいいのに、といつも思っていた。

おそらく私は視覚先行型の人間なのだろう(そういうタイプ分けがあるかどうか分からないけれど)。

そういう意味では、映画とはとても相性が良かったのかもしれない。

相性ぴったりの相手を見つけた私は、その中へズブズブと沈み込んで行った。

 

 

 

 

 それから一ヶ月も経たないうちに、今度は「自分で選んだ映画を観てみよう」と思い立った。

前回の『ゴーン・ガール』は、友人から「傑作のサスペンス映画」とお墨付きを頂いていたので、作品自体の善し悪しはクリアしている状態であったと言ってもいい。あとはその脚本や内容が個々人に合うか合わないか、それだけの問題だった。

 

けれども、自分でイチから観る映画を選ぶとなると話は別だ。

これがめちゃくちゃ難しい。

すでに世間的に星5の評価をもらっているレストランへ初めて行くことと、全く知らないがとにかく店構えがなんだか良さげなので行くのとでは、天と地ほどの差がある。

孤独のグルメ』のように、行った店がどれもアタリなんてことは、あまりない。というか、ほとんどない。

映画だって同じだ。前評判なしに飛び込んだ映画が、どれもこれも傑作なんてことはあり得ない。腹の足しにもならない1500円を払ってまで、そんな賭けをするなんて、時代の流れに逆らっているようなものだ。

それでも、選ぶところから自分でやってみたかった。

それが失敗でも成功でも、どちらでも良かった。とにかく、批評に左右されない、私自身の感想を持ってみたかったのだ。

 

年が明けたその時に私が選んだのは『ANNIE』という映画だった。

www.bd-dvd.sonypictures.jp

お分かりのとおり、名作の劇場版だ。これまでにも何度か映画化されてはいるが、劇場版を観るのは初めてだった。

最初のうちは大胆で楽しい演出だったのだが、その後急激に尻すぼみになり、後半はめちゃくちゃ退屈だった。

ミュージカル映画なので、エモーショナルかつ前衛的な音楽の力によって何回も立ち直りかけたが、脚本が全く好きになれず、登場人物もイマイチ魅力的だとは思えなかったので、帰る頃にはゲッソリとしていた。

 

これが、私の初陣。

正直、結構悔しかった。イマイチな映画に1000円払ったことも悔しかったけれど、それ以上に批評に寄りかかっている自分が見えて、それが何より腹立たしかった。

 

「もし、きちんとリサーチをして、映画ドットコムなりyahoo映画なりで評価の高い映画を選定していれば、この時間はもっと有意義なものになったかもしれない」

 

一瞬でもそう思ってしまったことが、とても悔しかった。

 

選ぶことは、とても勇気の要ることだと思う。

エネルギーも使うし、何度も回り道をしたり、時にはリスクだって背負う必要がある。

それでも、「自らの意思で選択をすることは、決して愚かしいことではない。」と、そう思いたかった。

 

だから、どうして私はあの映画を好きになれなかったのか、ウンウンと頭を悩ませながら考えた。同じことを繰り返さないためにも、私は「わたしの価値観」というものをもう一度、イチから知る必要があると感じたからだ。

どうやったら良かったのか?何が違えば満足したのか?私が監督だとしたらどこを変える?

音楽は?俳優は?演出は?脚本は?時代設定はあれでよかった?子役の服装は?撮影にも手を加えるべき?

最初にも言ったが、私は映画の知識なんてこれっぽっちもない。

割と理詰め寄りの人間だけれど、それでも自分の感性と直感は最終的には最も頼れる相棒だと思っている。この一ヶ月で得た映画の知識のカケラも総動員しつつ、それを私は「好き」か「嫌いか」、もっと極端に言えば「心が動く」か「動かない」か、そういった基準で少しずつ映画をバラバラに分解していった。

 

これが、私が映画を見続けるきっかけである。

 

難しい専門的な知識は、いまだに持っていない。チマチマと勉強したりもしているが、なんだか深く勉強するのが少し怖い気持ちもある。

私生活でバタバタとしている時期は当然そんなこと勉強している時間もなかったし、それよりはもっと多くの映画に触れたいという気持ちの方が、今は強い。

 

 

別に、私は批評家になりたいわけでも、映画監督を目指しているわけでもないが、映画を観るのがとても好きだ。

映画を通して、自分という人間の、また他人の心の挙動を覗き見て、密かに感嘆の声を漏らしてしまう。

そんな風に感じるんだ。そこに心が揺れるんだ。すごい。すごい、この世は広く、そして多彩だ。

ちょっと悪趣味かとは思うが、そんな動機で映画を観ては、心の樽に幸せをとぷとぷと注いでいる。